『この国のかたち-六』ー司馬遼太郎
●言語についての感想-②

 ✪森は、ついに、日本は日本語を捨て、英語を国語とすべきだと思いつめるまでになった。かれはこの”案”について、1872年(明治5年)エール大学教授W・D・ホイットニーに手紙を書き送り、意見をもとめ、反対された。森以外にこういう考えをもった高官はいなかったようで、それだけにムキになり、とくにアメリカ人の意見を聞いてまわったらしい。

右のような森有礼説は極端ながら、要するに日本語は、明治初年、それほどひどい扱いを受けた。

民族というのは、煮詰めてしまえば、共有するのは言語しかない。森は晩年の言動でもわかるように、極端な国家主義者であった。国家は、いわば民族という身にとっての蓋なのだが、その蓋だけが富国強兵であればよく、身である民族文化など衰弱してもどうでもいいという不思議な純粋思考を森有礼はもっていた。幕末から明治にかけて欧米を見てしまった人の病的な切迫感からかれを見てやらねばならない。が、この稿は森有礼論ではない。

 

各府県に中学校が拙速ながら整備されはじめるのは、明治10年ごろからである。当時の中学校は、多分にそれ以前、主要都市に存在した洋学校の色彩をもっており、国語という科目はなかった。正岡子規(1867~1902)が愛媛県立松山中学校に入学するのは明治13年で、四年生まで在学して、退学する。

子規が松山中学校にいるとき、おそらく全国的にそうであったろうが、国語科というものがはじめて設けられた。学校当局も何を教えていいかわからず、近所の神主をよんできて祝詞(のりと)を教えさせたという(このことについては子規の文章があるのだが、いまどうにも見当たらない)。

 

ただ漢文はあった。松山中学校の場合、子規の当時の漢文の先生は村井俊明という人で、子規入学と同じ年に奉職した。その村井俊明自身の文章が、子規と松山で同学だった柳原極道の『友人子規』に載せられている。それを孫引きする。

 





#正岡子規 #民族が共有するのは、言語 しかない#森 有礼

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