『歴史のなかの邂逅ー四』-司馬遼太郎

●日本人の名前ー①

✪維新前、人の名前にナノリというものがあった。広辞苑(第一版)のその項をひくと、名告・名乗とあって

「公家及び武家の男子が、元服後に通称以外に加えた実名。通称藤吉郎に対して秀吉と名乗る類」とある。後藤又兵衛の名乗りは基次であり、大石内蔵助は良雄である。


「坂本直柔(なおなり)」というとたれのことかわからないが、坂本竜馬の名乗り名である。名乗り名がいわば正式の名前なのだが、幕末になると手紙でも公文書の場合でも通称のほうでとおすのが一般の風になっていたから、すでに名乗りは形式だけのもので、当人でも忘れている場合があったろう。


明治になって、一人の人間でいくつもの名前をもっているのは陋習(ろうしゅう)である、以後一人一称とせよ、という意味の太政官令が出てこんにちのようになった。


桂小五郎は、幕末のぎりぎりのころは木戸貫治といったり準一郎といったりしていた。かれが明治になってお上に届け出たときは、通称をやめて名乗りのほうの孝允(たかよし)を生かし、木戸孝允といった。そのほうがなにやら荘重な感じがしたからに違いない。


「一蔵」


というのは大久保利通の通称で、仲間のたれもが一蔵々々とよんで、そのトシミチというような大層もない名乗りをもっているとは知らなかった。利通は威厳のある容儀をこのんだ。そういう好みのあらわれであろう。

同じ参議でも、佐賀出身の江藤新平は、

ーー自分は新平でいい。

と、それを戸籍名として届けた。かれに胤雄(たねお)という名乗りがあって、維新後もときどき署名に使っているのだが、それを戸籍名にしなかったのは、多少の反骨を思わせる。なぜなら、新平の名を届け出るとき、まわりの者に、


「中間(ちゅうげん)の名前のようで、位階のついた大官にふさわしくないではないか」


といった者があった。たとえば従四位シンペイではおかしく、やはり大名や公卿名のように、北条時政、徳川家康、池田光政、岩倉具視、西園寺公望のように名乗り名を用いたほうがいかめしくていい、というのである。江藤はこれに対し、

「それじゃ新平(にいひら)とよんでくれ」


と吐きすてるようにしていったというから、この反逆児は元来、大久保流の荘重趣味には感覚的にもあわない人物だったのだろう。

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